いやーっ。良かった。
「Part of Your World」(リトル・マーメイド)もよかったし、
ラスト、お花畑のようなドレスをひるがえし、「エメ」(ロミオとジュリエット)でヴェールをひらひらと踊る姿は、
争いの街ヴェローナの貴族令嬢というより、ディズニーシーの「ファンタジースプリングス」で花々をめぐって飛ぶティンカーベルのようでした。
あのピアニストの指先のようなステップ!
床を踏むと音楽が鳴るようになっていて、舞空瞳はあの足さばきで床を演奏しながら踊っているんじゃないか?と思うほど、音と身体がピタっとハマって決まる。
舞空瞳には、「ディズニープリンセス」が良く似合う。
ほんもののプリンセスがいない、「民主主義の国」・アメリカの、
「アメリカ資本主義」の代表的企業であるウォルト・ディズニー・カンパニーが世界に提示するのが、「ディズニープリンセス」
「ディズニープリンセス」って、日本やイギリス(宝塚歌劇団も?)のような、「暗黙のお約束」を積み重ねてきた文化が生んだプリンセス像とは、やっぱり違うんですよね。
人工国家アメリカの誇りは、「歴史と伝統」とかではなくて、
「自由」・「民主主義」・「自主独立」・「個性尊重」
みたいな理念をどーんと全面に出しているところがあって。
「ディズニープリンセス」って、そんな超ポジティブなアメリカンな価値観を世界に宣言する、アンバサダー的役割があると思っています。
宝塚のプリンセス・トップ娘役って、「日本の皇室の内親王様」「ハプスブルク・プリンセス」的なキャラを求められることが多いと思うんです。
舞空瞳が礼真琴の隣で、タカラヅカ・プリンセスとして立っている時って、アメリカの女の子が日本の皇室に嫁いで、必死で「日本人に嫌われない、ジャパニーズ・プリンセスにならなきゃ!」と頑張っている感があったんですよ。
ディズニー社による「ディズニープリンセス」の紹介文によると、
ディズニーのプリンセスは、いつも前向き。
その勇気と優しさは、まわりを明るく照らす。
プリンセスたちは、みせてくれる。
勇気と優しさを持ち続ければ、運命さえも変えられることを。
未来をつくるのは、誰かではなく、自分自身。
だから進もう、私も、プリンセスのように。
私の未来は、私が決める。